多武峯縁起絵巻に見る乙巳の変@談山神社

談山神社の宝物を収める拝殿に、多武峯縁起絵巻の模写作品が展示されていました。

大化の改新のクーデターはよく知られるところですが、その様子を描いた絵巻物にも鬼気迫る臨場感がありました。談山神社参拝の際には、是非見学しておかれることをおすすめ致します。拝観料のみで見学可能です。ちなみに拝殿内の三脚使用は禁止されていますが、写真撮影自体は許可されていることをお断りしておきます。

多武峯縁起絵巻

多武峯縁起絵巻のワンシーンで、大極殿へ向かおうとする蘇我入鹿が描かれています。

その出立に際し、靴が三回転して履けなかったと記されていました。不吉な前兆がこの時から見られたようですね。リアルな描写に、思わず身を乗り出して見入ってしまいました。

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蘇我入鹿暗殺に至るまでの筋書き

飛鳥寺の蹴鞠で出会った中大兄皇子と中臣鎌足(後の藤原鎌足)。

大化の改新は二人の結託により実現しています。親しくなった二人は周囲に怪しまれないよう、本を片手に南淵請安先生の元へ通い、その行き帰りに語り合ったと伝えられます。

多武峯縁起絵巻

拝殿内に展示される多武峯縁起絵巻。

横長の絵巻物がガラスケースの中に展示されていました。

大化の改新が実行されるまでには、幾つかのプロセスが踏まれています。まずは中大兄皇子の妃として、蘇我倉山田石川麻呂の娘を迎え入れるという作戦が遂行されました。婚姻関係を結んで、石川麻呂を味方に引き入れようとする策略です。石川麻呂は蘇我氏の傍流であったと伝えられます。

乙巳の変の当日に向け、中大兄皇子は石川麻呂にこう告げます。

「三韓が調(みつき)を進上する日に、その上表文をお前に読んでもらう」。

三韓(高句麗・新羅・百済)の貢物献上の日に、天皇に対する上表文を石川麻呂に読み上げさせ、その時に入鹿を斬ろうとする計画でした。段階を踏んだお膳立てにより、蘇我氏滅亡の時計の針は着実に進んでいくことになります。

狛犬と勝軍地蔵

神廟拝所の狛犬と勝軍地蔵

勝軍地蔵は戦乱の中世に現れた軍神(いくさがみ)であり、藤原鎌足公の化身と伝わります。眉間に第三の目を持つ異形の神様でもあります。鎌足公御神像の右横、ガラスケースの中にご鎮座されていました。

蘇我入鹿の靴

冒頭の縁起絵巻の絵の上に解説が出ていました。

中大兄皇子は鎌足公の意見により、蘇我石川麻呂の娘と結婚する。

大極殿に出ようとする日の入鹿。くつが三回転してはけない。不吉であった。

なぜにまた靴が回転したのか?

天皇が待つ大極殿へ入鹿を行かせまいとする、何かのチカラが働いたとしか考えられませんね。

大化の改新の談合場面

裏山の談山(かたらいやま)で談合する中大兄皇子と藤原鎌足。

向かって左が鎌足で、右が中大兄皇子とされます。談山神社の名前の由来にもなった有名な場面の描写です。

多武峯縁起絵巻

多武峯縁起絵巻の解説文。

現在、奈良国立博物館に寄託中の室町時代初期の制作になる根本縁起(当殿内にパネルで展示中)を、御用絵師・住吉派の租、如慶とその息子、具慶が合同で模写した作品である。模写とはいいながらも、住吉派の個性が、随所ににじみ出ている優品。

絵巻は、談山神社の御祭神である藤原鎌足公(614~669)の誕生と、やがて中大兄皇子と謀り蘇我入鹿を倒すくだりより、蘇我氏滅亡、鎌足公の栄達とその死にことよせて、本社の縁起を描いたもの。鎌足公の死後一千年にあたる寛文8年(1668)の神忌にちなみ、後水尾天皇の発願によって制作されたものと伝えられている。

詞書は二條光平をはじめ、江戸初期の藤氏一門総勢42人の寄合書になり、如慶の支持層の一端を窺うことができる。

多武峯縁起絵巻の模写作品は、住吉如慶・具慶の合筆によります。確かに模写とはいえ、その躍動感あふれる筆致に引き込まれる参拝客も多いのではないでしょうか。

恋神社

鎌足の正妻・鏡女王を祀る恋神社。

藤原鎌足と鏡女王にちなむ縁結びスポットとして人気を博します。

拝殿下の鳥居から恋神社へと続く参道(恋の道)が続いています。不比等の生母と伝えられる鏡女王が、境内では縁結びの神様として信奉されていました。社殿向かって左側には「むすびの岩座」があり、撫でることで縁結びのご利益に授かります。

恋神社の前にも紫陽花が咲いていて、涼しげな初夏の風情を醸していました。

蘇我入鹿討伐

こちらは入鹿暗殺の場面ですね。

刀を振り上げているのが中大兄皇子で、弓を手にしているのが藤原鎌足です。

斬首された入鹿の首が宙を舞っています!

蘇我入鹿討伐

大化改新の有名な場面。いつわって三韓の表文をよむ石川麻呂。やがて討たれる入鹿。刀を振り上げるのが、中大兄皇子、弓をもつのが鎌足公。

縁起絵巻の主な場面には解説文が付いています。

絵を見ているだけでは分からないシーンもありますが、この場面だけは ”解説要らず” ですね。大化の改新は日本史の教科書でもすっかりお馴染みです。飛鳥板葺宮で討たれた入鹿の首は、飛鳥寺の西方まで飛んでいったと伝えられます。今もその場所には入鹿の首塚があります。

入鹿を討った鎌足は、気都和既の杜まで逃げ延びたと伝えられます。さすがに此処までは追って来ないだろうと、一息付いた場所が茂古の杜(もうこのもり)として残されています。ロマンがあって面白い逸話ですよね。

談山神社蹴鞠の庭

総社拝殿と神廟拝所の間に広がる蹴鞠の庭

木造十三重塔を望む、談山神社きっての撮影ポイントですね。

蘇我蝦夷自殺

入鹿のしかばねを見た蝦夷は、もはやこれまでと家に火を放って自殺。一族滅亡。

大臣として権勢をふるっていた入鹿の父・蝦夷ですが、乙巳の変で自害していることが縁起絵巻にも描かれていました。

先ごろ明日香村で発掘された小山田遺跡が、蝦夷の墓ではないかと言われていますが、果たしてその真相やいかに?飛鳥のロマンは尽きることがありませんね。

蘇我蝦夷自害

この担架のようなものに乗せられているのが蝦夷の亡骸なのでしょうか。

数年前に多武峰方面から石舞台古墳へと下りて行く道が整備され、益々多武峰と飛鳥の距離が縮まったような気がします。談山神社と石舞台古墳がお互いに周遊ルートの中に組み込まれる旅行プランも見られるようになりました。

桜井市の観光スポットでは安倍文殊院~聖林寺~談山神社に周遊性が認められます。JR・近鉄桜井駅からどれも皆、同じ方向にある観光スポットです。談山神社からさらに多武峯街道を辿れば、石舞台古墳へ至ることも覚えておきたいところですね。ちなみに石舞台古墳の被葬者は、蝦夷の父である蘇我馬子ではないかと言われています。

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