南淵請安墓と大化の改新

飛鳥時代の学問僧・南淵請安(みなぶちのしょうあん)。

大化の改新を企てた中大兄皇子や中臣鎌足に影響を与えた人物としてその名を歴史に刻みます。以前からそのお墓が奥飛鳥にあることを知っていたのですが、今回初めて訪れることになりました。

南淵請安墓

南淵請安の墓。

墓石に「南淵先生之墓」と刻まれます。お墓の背後には、神社境内の御神木と小祠が見られますね。実は請安先生の墓は、稲渕村落に鎮座する談山神社の神明塚に建てられています。飛鳥川上流の静かな場所に佇むお墓でした。

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遣隋使として中国に渡った儒学者

南淵請安の生没年は未詳ですが、西暦608年に当時の中国・隋に渡り、640年に帰国を果たしていることが史書に明らかです。

中大兄皇子や中臣鎌足に儒学を授けた人物であり、歴史の転換点にあって大変重要なキーパーソンとされます。稲渕の談山神社の御祭神は藤原鎌足です。鎌足は中大兄皇子と共に請安の塾に通っていたそうです。その行き帰りに、蘇我氏打倒の謀(はかりごと)が練られたと伝えられます。

談山神社(稲渕)

稲渕村落に鎮まる談山神社。

石鳥居の向こうに、小さな祠が見えていますね。

談山神社の祠

談山神社の小祠背後に御神木、右手には金毘羅大権現石、石燈籠、お堂などが見られます。

南淵請安の墓は、この祠の後ろ側にあります。教え子の鎌足と背中合わせなんですね。南淵請安の改葬墓と伝わる神明塚ですが、「談山(かたらいやま)」と称されることもあるようです。

入鹿討伐の密談を行ったから談山(かたらいやま)というわけですが、多武峰談山神社の裏手にも「談所の森」と呼ばれる場所があります。日本の歴史が大きく動いた場所を目の当たりにすると、さすがに感慨もひとしおです。

今回私がお参りに訪れた季節は冬です。春になれば、神明塚の周りには桜の花が咲くそうです。地味な墓地見学ではありますが、少しは華やいだ気分にさせてくれるのではないでしょうか。

南淵請安の墓へアクセス

真冬の飛鳥散策でしたが、この度は結構な距離を歩きました。

石舞台古墳の駐車場から都塚古墳、マラ石、坂田寺跡を巡り、稲渕の棚田風景を愛でながら県道15号線を歩きます。しばらくすと、遥か右手に稲渕の巨大案山子が見えてきます。案山子コンテストの案山子がまだ居残りしているんだなぁと思いながら、さらに歩を進めます。

やがて勧請綱掛神事で有名な男綱が視界に入ってきます。

神所橋

稲淵川に架かる神所橋(かんじょばし)

ここでY字に道が分かれており、南淵請安の墓へは左手の道を進みます。稲渕集落へ入って行く道なのですが、道が細くなるとはいえ、車が通れない道幅でもないようです。車でアクセスされる方は対向車に注意しながら、お墓近くまで近づくことができそうです。

南淵請安墓の道標

飛鳥の飛び石や、左右に民家が建ち並ぶ集落道を進んで行くと、やがて左手に南淵請安の墓を案内する石標が立っています。

是より云々と、ここからの距離が刻まれているようですね。石標の背後にはお地蔵さんがいらっしゃいました。

写真左手に見えている石垣は浄土宗のお寺・竜福寺のものです。石垣の向こうへ左にカーブしている道が見えますが、この道は辿らないで下さい。竜福寺の門前へと通じている道であり、南淵請安の墓へは辿り着けませんので注意が必要です。

南淵請安墓のアクセス道

ここが重要なアクセスポイントになります。

左が竜福寺、右が南淵請安墓へと通じています。Y字路の窪み部分に木の道標がありましたが、風雨のためか読み取れなくなっていました。どっちだろう?と迷って最初は左の道を選んでしまいました。竜福寺の周りをぐるっと回り込む坂道ですので、くれぐれもお間違いなく(笑) 正解ルートは右手の道です。

南淵請安墓のアクセスルート

Y字路を右に取って道なりに進んで行くと、正面の丘陵上に鳥居が見えて参りました。

どうやらあそこが南淵請安先生のお墓のようです。

南淵請安墓の鳥居

石鳥居の上には小石が置かれていました。

お墓とはいえ、ここは神社なのですね。お参りに訪れてみて、初めてそのことを知りました。

神明塚

祠の手前には金毘羅大権現の石が祀られています。

御神木の幹は二手に分かれ、寒空へとその先を向けていました。

南淵請安墓の解説

南淵請安墓の解説パネル。

推古天皇16年(608)遣隋使学問僧として派遣され南淵請安は、在唐32年舒明天皇12年(640)帰国し、中大兄皇子・藤原鎌足らに「周孔の学」すなわち儒教を教えた。

孔子の教えは漢文でもおなじみですよね。

「子曰く」で始まる文体を学生時代に習った記憶が蘇ります。実際に南淵請安の塾でも、私たちが習ったのと同じような授業が行われていたのかどうかは定かではありませんが、少なくとも同じ空気感の中で中大兄皇子や中臣鎌足も学んでいたのかと思うと、不思議と親近感が湧いてきます。

談山神社の祠

小さな祠には石段が付けられていました。

ここに祭神の藤原鎌足が祀られているのかもしれませんね。

さて、左奥に見える石瑞垣の中に注目です。長細い石が建っているのが見えますが、あれが請安墓のようです。

南淵請安墓

祠の左手に回り込んでみると、ありましたありました。

請安墓の背後から失礼します。

神明塚

下方を覗き込んでみます。

すごい崖!

神明塚はかなりの高台に位置しているようです。

南淵請安墓

振り返って真正面から南淵請安墓を拝みます。

墓石は卒塔婆のような形をしていますね。

南淵請安の邸宅は、稲渕から飛鳥川を挟んだ対岸の朝風にあったと伝えられます。家の近くに葬られるのは有り難いことですよね。南淵請安は渡来人の血を引く人物です。その昔、稲渕の奥に当たるこの辺りは渡来人たちの部落だったのかもしれません。

万葉歌碑

境内に歌碑らしきものが建てられていました。

あまりに達筆で、何が書かれているのか分かりません(笑)

談山神社の小堂

祠の右脇の小堂。

お地蔵様が祀られているのでしょうか。

談山神社の祠

祠の両脇には小さな狛犬が陣取ります。

祠前の榊ですが、風で倒されてしまったのでしょうね。

若かりし頃の南淵請安の聡明さは聖徳太子の知るところとなります。小懇田宮で政務を執っていた太子に見出され、斑鳩に建設された学問寺に入ることになります。そこで語学を身に付けた請安は、後に中国に渡って様々な知識や文化を持ち帰ることになるのです。

南淵請安の石碑

境内の片隅に建つ南淵先生碑

割と新しい石碑のようです。

談山神社の小祠

日本文化に多大な影響を及ぼした儒学。

その道徳的発想は、今の世にも浸透していることを知らされます。大化の改新以降の政治的重要ポストに、南淵請安の名前は見られません。藤原鎌足や中大兄皇子に受け渡したバトンは確実に後世に引き継がれていくことになるわけですが、当の請安先生は、次代を築く人間を育てた後に亡くなったのではないかと言われます。

南淵請安墓のアクセス道

南淵請安墓から帰路に着きます。

石鳥居から緩やかな坂道が集落の中へと伸びています。

細々とではありますが、脈々と受け継がれる請安先生の教え。その土台の上に、現代に生きる私たちも立っているのかもしれませんね。

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