鏡女王押坂墓

藤原鎌足の正室と伝えられる鏡女王。

談山神社の境内に恋愛の神様として祀られている鏡女王ですが、その墓は舒明天皇陵からさらに奥の谷合にありました。鏡女王の読み方は「かがみのおおきみ」だとばかり思っていましたが、「記紀・万葉故地 忍阪」のまちづくりマップには鏡女王(かがみのひめみこ)と案内されています。

鏡女王は謎の多い人物のようで、その表記法にも様々なものが見られます。万葉集では鏡王女、日本書紀では鏡姫王、そして興福寺縁起や延喜式では鏡女王と記されています。

鏡女王押坂墓

鏡女王押坂墓(かがみのひめみこおしさかぼ)。

簡単な鉄の柵が正面に設けられていました。背後は木の生い茂る丘陵で、この石標が無ければここが鏡女王のお墓であることには気付かないでしょう。

外鎌山と大伴皇女押坂内墓

正面から右手に回り込むと、外鎌山(とかまやま)を案内する道標がありました。

ここから外鎌山山頂までは徒歩30分の距離です。

右手が忍坂山(おさかやま)とも称される外鎌山で、左手に行けば大伴皇女押坂内墓(おおとものひめみこおしさかうちはか)へアクセスします。大伴皇女押坂内墓からは素晴らしい景観が望めるようです。今回は時間がありませんでしたが、多武峰や音羽山(おとわやま)などを見渡せるとのことです。次回は是非、足を運んでみようと思います。

鏡女王押坂墓

正面から右手に回り込むと、緩やかな坂道が続いています。少し登ってみましたが、左手の鏡女王の墓の様子がよく分かります。

鏡女王は藤原不比等の生母とも言われる人物です。

近江国野洲群鏡里の豪族・鏡王(かがみのおおきみ)の娘で、万葉歌人である額田王の姉にも当たります。なんだかすごい血縁関係ですよね。古代に張り巡らされた政略結婚からは、驚きの系図が見て取れます。実はこの鏡女王は藤原鎌足の正室となる前に、天智天皇の后でもあった時代がありました。

そのことを如実に物語る歌が残されています。

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秋山の樹の下隠り逝く水の

舒明天皇陵の右手を流れる小川の畔に、ひっそりと鏡女王の万葉歌碑が建っています。

万葉学者の犬養孝揮毫による歌碑です。

鏡女王の万葉歌碑

秋山の 樹の下隠り 逝く水の 吾れこそ益さめ 御思ひよりは

この歌の響きの良さにしばし感じ入ります。

まずはこの歌の背景を解説しておきます。

当時皇太子であった中大兄皇子(天智天皇)の 「妹が家も継ぎて見ましを大和なる大島の嶺に家もあらましを」 に答えた歌とされます。つまり、返歌ですね。

木の下を隠れて流れる水のように、決して表には見せませんが、お逢いしたいという私の思いの方が勝っておりますよ。といった意味合いになります。恋愛中は相手の思いが気になるものです。思いが募れば募るほど、胸が苦しくなる。あなたは私のことをどう思っているの?不安と期待が入り混じる中、はっきりしているのは益々好きになる自分の胸中だけ。

自分の想いの方が強い。つい天秤にかけてしまい、益々物憂げになるのが恋というものなのかもしれません。恋は相手の魂を乞い願うものです。鏡女王の胸中が、樹の下隠り(このしたがくり)という言葉で見事に表現されています。

天智天皇の「御思ひ(みおもい)」よりは、私の方が勝っている・・・「吾れこそ益さめ(われこそまさめ)」なのです。天智天皇を試すかのような、女性の意地のようなものが垣間見えます。

舒明天皇陵参道のケイトウ

舒明天皇陵(段ノ塚古墳)へと続く道。

道路脇に鶏のとさかを思わせる鶏頭(ケイトウ)の花が咲いていました。

鏡女王押坂墓のアクセス道

八角墳の舒明天皇陵の脇を進んで行きます。

道の右側を流れる小川のせせらぎが心地よく耳に届きます。

鏡女王押坂墓のアクセス道

深い杜の中へ続く道。

鏡女王は夫である藤原鎌足の病気平癒を祈願して山階寺(やましなでら)を建立しています。山階寺は後の興福寺のことです。人気の観光スポットとして知られる興福寺ですが、その歴史を刻んだのは鏡女王その人です。

鏡女王押坂墓

万葉歌碑からさらに進んで行くと、程なく左手に鏡女王のお墓が見えて参りました。

実は数年前にこの辺りを訪れたことがあったのですが、草木が生い茂って鏡女王のお墓を見つけることができませんでした。今回は道もさほど悪くもなく、無事に辿り着くことができました。

鏡女王押坂墓

石段を少し上がった所に、鉄柵と石標が見えます。

左手には天皇陵などではおなじみのお達しのようなものが見えています。鏡女王押坂墓は宮内庁管轄ではなく、談山神社の管理下に置かれているようです。藤原鎌足の正室ということで、そのあたりは納得のいくところですね。

鏡女王押坂墓の案内板

お墓の脇には解説パネルもありました。

鏡女王の夫であった中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)。

日本史上、大化の改新を成し遂げた人物としてあまりにも有名な二人ですよね。鎌足はよほど鏡女王に心を奪われていたのでしょうか。

中大兄皇子と中臣鎌足が談合を行った場所が、今も談山神社の裏手の山中に残されています。飛鳥寺での蹴鞠に始まり、不思議な縁で結ばれる盟友ですが、二人の固い絆は鏡女王抜きには語れないのかもしれません。

鏡女王押坂墓

厳重に閉ざされた聖域です。

時が止まったような忍阪の奥の谷。

万葉学者の犬養孝も、著書「万葉とともに」の中で奥の谷の景観をこう評しています。

将来は分からないにしても、せめてこの山懐の静けさだけでも、この国の未来にかけてこのまま残っていってほしいものである

鏡女王押坂墓

この国の未来にかけて、奥の谷はそう思わせるほどの場所です。

外鎌山の登山もいつか体験してみたいと思います。

反対側の朝倉台の方にも外鎌山の登山口があるようです。地図で確認してみると、山頂へは朝倉台からの方が近いものと思われます。鏡女王墓の裏手から続く登山道の方が遠回りになるみたいですが、より原始的な登山が楽しめるのかもしれませんね(笑)

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