金屋の石仏!会津八一の短歌

古都奈良をこよなく愛した会津八一。

三輪山南麓の金屋の集落の外れに、重要文化財に指定される金屋の石仏があります。その金屋の石仏を題材にした歌が残されています。

金屋の石仏

二体の金屋の石仏

耳しふと ぬかづく人も 三輪山の この秋風を 聞かざらめやも

金屋の石仏は耳の不自由な人に霊験あらたかとされていますが、そのことを伺わせる歌の内容となっています。「しふ(シウ)」とは、古語における自動詞で、感覚器官が働きを失うことを意味します。名詞としても使われ、目しひ(シイ)、耳しひ(シイ)などと表現します。

弥勒谷石棺と『金屋の石仏』の焼物
かつて三輪山の弥勒谷にあったという石棺。 「ミロク谷石棺」とも呼ばれ、その内の一つには阿蘇ピンク石が使われています。 文字通りピンク色の石で、阿蘇山の噴火で流れ出た火砕流が固まり形成された溶結凝灰岩です。金屋の石仏のお堂下に置かれていること...

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耳の病にご利益のある金屋の石仏

会津八一の経歴を辿ると、早稲田で学んでいた時代があります。

それだけで何か、会津八一に対する親近感が湧いてくるのです。

関西エリアにも、耳の病気にご利益のあるお寺がいくつか存在します。京都伏見の大光寺、京都大原の来迎院、法隆寺西円堂などが挙げられます。三輪山麓に住まう私にとって、こんな身近にあったとは思いもしませんでした。

金屋の石仏

山の辺の道のルート上にある金屋の石仏。

現在は頑丈なコンクリート造りの収蔵庫に収められていますが、会津八一の歌の情景には、路傍の木立に立て掛けられていた金屋の石仏が浮かび上がります。

野晒し状態の金屋の石仏。

向って左側の弥勒菩薩は、右側の釈迦如来に比べ摩耗が進んでいます。風雨にさらされていたことも一因なのかもしれません。その点、お堂や祠の中に安置されている仏様は幸せです。長い歴史の中で、野晒し状態を乗り越えてきた仏様には頭が下がる思いです。日本最古の仏像である飛鳥寺の飛鳥大仏も、風雨に耐え忍ぶ野晒し期間を経験しています。

山の辺の道のトイレ

金屋の石仏の隣りにトイレが設置されています。

山の辺の道ハイキングの道中、ここで用をたすハイカーの方も多いのではないでしょうか。

耳の不自由な老婆が額を地に付けてお祈りしているのでしょうか。三輪山から吹き付ける秋風を、この老婆が聞いていないなどということはないだろう(おそらく聞いているだろう)という意味になるでしょうか。歌の最後の「やも」は反語で、反意的に強調して締めくくられています。

板状の石に仏像を刻したるもの二枚あり。・・・・路傍の木立に立てかけ、その前に燭台、花瓶、供物、および耳を疾(や)める里人の納めものと見ゆる形ばかりなる錐など置きてありき。

耳の病いの快復を願って納める錐(きり)。

法隆寺西円堂の堂内にも、耳の病気平癒を願って錐が多数奉納されていると言います。

弥勒菩薩

金屋の石仏の弥勒菩薩(推定)。

金屋の石仏は元来、三輪山の南の弥勒谷(ミロク谷)にあったと伝えられます。

弥勒さんの石仏で思い出すのが、飛鳥川の畔にひっそりと佇む弥勒石。

飛鳥の弥勒石は足の不自由な人に霊験あらたかとされます。弥勒石を囲う祠には、たくさんの草鞋が吊り下げられています。なぜ金屋の石仏が耳の悪い人に信仰されてきたのか、その理由は定かではありません。神奈備である三輪山の懐に抱かれながら、長きに渡って庶民の信仰の対象になってきた有り難い石仏です。

金屋の石仏の解説

金屋の石仏の案内板。

会津八一には「南京新唱」という歌集があります。

南京は「なんきょう」と読むようですが、「南都(なんと)」と意味は同じです。奈良の地方銀行にも南都銀行がありますが、南の都が奈良なら、北の都の「北都」は京都を指すようです。時間のあるときにでも図書館へ足を運んで、会津八一の「南京新唱」を紐解いてみたいと思います。

鋳物師が活躍した金屋!山の辺の道を歩く
三輪山の南の麓に金屋と呼ばれる集落があります。 金屋は三輪小学校区に入っているため、私も小学校時代には金屋出身の友人がたくさんできました。金屋という地名は、古くから鉄の製錬が行われていたことに由来します。 山の辺の道沿いにある金屋の石仏。 ...
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