両国の芥川龍之介文学碑

東京の両国に芥川龍之介の文学碑があります。

墨田区内に二つあるという文学碑の内の一つを見学して参りました。場所は芥川龍之介が通っていたという両国小学校の角です。

芥川龍之介文学碑

芥川龍之介文学碑。

左手奥に見えている道を東へ進めば、勝海舟生誕の地と伝わる両国公園にアクセスします。芥川龍之介文学碑は、両国小学校創立115周年記念事業として平成2年10月に建立されています。

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児童文学『杜子春』の一節と龍之介の生い立ち

数々の短編作品を世に送り出した芥川龍之介。

学校の教科書でもすっかりお馴染みの小説家ですよね。日本人で芥川龍之介を知らない人はいないのではないでしょうか。そんな芥川龍之介の文学碑が両国にある・・・墨田区観光協会発行の両国エリアマップを片手に、JR両国駅界隈を散策して参りました。

芥川龍之介文学碑

芥川龍之介文学碑の解説。

第一ホテル両国から清澄通りを南下し、JRの高架下を抜けてしばらく進みます。途中の大きな交差点を渡って西へ向かうと、芥川龍之介文学碑に辿り着きました。

芥川龍之介は、明治25年(1892)3月1日、東京市京橋区入船町に新原敬三、ふくの長男として生まれました。辰年の日辰の刻に生まれたのにちなんで龍之介と命名されました。生後7ヶ月の時、母ふくが突然発病したために、本所区小泉町15番地(現両国3丁目)に住んでいたふくの長兄芥川道章に引き取られ、13歳の時芥川家の養子となりました。

芥川家は旧幕臣で江戸時代からの名家で、道章は教養趣味が深く、文学、美術を好み、俳句や盆栽に親しむとともに南画をたしなみ、一家をげて一中節を習い、歌舞伎を見物するなど江戸趣味豊かな家庭でした。

本所は龍之介の幼児時から少青年期までの大事な時期を育んだ場所で「大道寺伸輔の半生」「本所両国」などの作品にその一端を見ることが出来ます。龍之介は明治31年(1898)回向院に隣接する江東尋常小学校付属幼稚園に入園、翌明治32年(1899)同小学校(現両国小学校)に入学しました。

明治38年(1905)府立第三中学校(現両国高等学校)に入学、明治43年(1910)成績優秀により無試験で第一高等学校第一部乙類に入学しました。その後大正2年(1913)東京大国大学英文科に入学、大正5年(1916)卒業しました。東大在学中、夏目漱石の門に入り同人雑誌「新思想」「新小説」に優れた短編を発表して文壇に華やかに登場しました。

龍之介の生後間もなく、母が病に罹ったことが記されていますね。

両国にある母の実家で、18歳までの月日を過ごすことになった龍之介。相撲で知られる両国の地は、日本の文豪・芥川龍之介の故郷でもあったようです。近くの回向院へ行けば、龍之介が遊んだという木が今も残されています。

芥川龍之介文学碑

両国小学校の北西隅にある龍之介の文学碑。

電柱に案内板が巻かれていました。

『すみだまち歩き 両国南コース』と記されていますね。文学碑から北へ取り、大通りに出ると ”龍之介生育の地” があります。生育の地には特に目立ったものは何もなく、ただ案内板が立っているのみでした。

ちなみにこの文学碑から西の方向には、相撲部屋の時津風部屋があります。さらに南方には吉良邸跡・本所松坂町公園があり、赤穂浪士討ち入りの舞台現場に触れることができます。

芥川龍之介文学碑

児童文学「杜子春(とししゅん)」の一節が刻まれています。

「-お前はもう仙人になりたといふ望も持っていまい。大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。
ではお前はこれから後、何になったら好いと思ふな。」
「何になっても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです。」
杜子春の聲には今までにない晴れ晴れした調子が罩(こも)っていました。」
「杜子春」より

龍之介の短編小説として知られる杜子春(とししゅん)は、1920年(大正9年)に雑誌『赤い鳥』で発表されました。中国の古典を童話化した作品として知られます。

龍之介の文学碑ですが、両国高校の正門を入ってすぐの場所にも『大川の水』の一節が刻まれた碑があるようです。芥川龍之介ゆかりの場所として、是非訪れてみられることをおすすめします。

芥川龍之介の『杜子春』を読んでみたいという方は、Amazonの通販でも「蜘蛛の糸・杜子春」(新潮文庫)をお買い求め頂くことができます。

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