国史跡菖蒲池古墳の発掘調査

新聞紙面の奈良版に目を通していると、橿原市の国史跡・菖蒲池古墳にまつわる記事が掲載されていました。

つい先日に訪れたばかりだったので、大変興味深く拝読致しました。菖蒲池古墳の想定断面図と共に、東西67~90mにも及ぶ大規模な方墳であった可能性が浮かび上がりました。橿原市教育委員会がこのほどまとめた発掘調査報告書の中で明らかにしています。

菖蒲池古墳

国史跡の菖蒲池古墳。

奈良県内に長く暮らしていると、かつて遊園地で賑わった菖蒲池(あやめいけ)を思い出してしまうのですが、橿原市内に佇むこの古墳の名前は菖蒲池(しょうぶいけ)と読みます。

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榛原石も出土した菖蒲池古墳

墳丘の中の石室内には、2基の石棺が安置されています。

菖蒲池古墳の被葬者は未だに謎ですが、乙巳の変で討たれた蘇我蝦夷・入鹿父子ではないかとする説が有力です。あるいは乙巳の変に加担したと伝えられる蘇我倉山田石川麻呂の墓ではないかとする説もあります。古墳の被葬者に関しては諸説紛々としているものが数多くありますが、菖蒲池古墳もその内の一つということになります。

菖蒲池古墳

石室内部をよく見てみると、確かに2基の石棺が確認できます。

石室を覆う墳丘の一段下には砂利敷き、さらに一段下には堀が築かれていました。堀を挟んで高さ3.3m以上の土を盛った外堤も築かれており、東西に外堤が対照的に存在していたと仮定するなら、東西約90m、南北約82mの墓域を誇っていたとされます。墳丘と外堤の築造技術には土を何層にも突き固める版築工法土嚢工法が併用されていました。

菖蒲池古墳の周辺地図

菖蒲池古墳の周辺地図。

Pと書かれているのは野口駐車場です。自転車のマークは明日香レンタサイクル亀石営業所を表しているのでしょうか、あるいはサイクリングコースが案内されているのかもしれませんね。飛鳥最大級の方墳と話題をさらった小山田遺跡の発掘により、全国にその名を知られることになった明日香養護学校のすぐ裏手にあります。

奈良県立明日香養護学校の看板

亀石の前の交差点に、奈良県立明日香養護学校の看板が立っています。

セブンイレブンに駐車する車が数台見えていますね。

菖蒲池古墳の墳丘下部の堀は、藤原京に遷都された時代(694~710)に埋め立てられたそうです。その堀を埋めた土中から榛原石を加工した磚(せん)が出土しています。磚(せん)とは古代のレンガのことですが、この磚(せん)が墳丘側から捨てられた形跡があるようなのです。古墳の頂上部を榛原石で飾った可能性が指摘されています。菖蒲池古墳の東に隣接する小山田遺跡でも榛原石が出土しており、その一部が菖蒲池古墳に投棄された可能性も残されます。

明日香レンタサイクル亀石営業所

明日香レンタサイクル亀石営業所。

飛鳥駅前、橿原神宮前東口、石舞台、祝戸荘、亀石の各営業所へ乗り捨て可と案内されています。

橿原市観光名所

ここから緩やかな坂道を200mほど上がって行けば、目的地の菖蒲池古墳に辿り着きます。

甘樫丘、川原寺、植山古墳も案内されていますが、それぞれ十分に徒歩圏内です。この他にも、聖徳太子生誕の地と伝わる橘寺や、日本国の礎を築いたとされる天武・持統天皇陵などもおすすめの周辺観光スポットとなっています。

菖蒲池古墳

周辺の観光スポットを見てみても、菖蒲池古墳の重要性がうかがえます。

飛鳥中枢部につながるルートの入口に位置する菖蒲池古墳。

菖蒲池古墳は7世紀中頃に築造され、長くても半世紀後には埋め戻されているようです。藤原京の時代には、掘立柱建物が建てられていたとされます。小山田遺跡からは荷札木簡が見つかっており、藤原京の時代には公的施設があった可能性も指摘されます。

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