与板大仏仏頭@京都知恩院

京都の知恩院にお参りした時、巨大な仏頭に出会いました。

ふくよかなお顔をなさっていて、頭上の螺髪も抜け落ちることなく綺麗に付いていたのが印象に残っています。世界最大級の木造三門にばかり目が行きがちですが、知恩院の境内奥まで足を運ぶと新たな驚きに満ちています。

与板大仏仏頭

知恩院御廟所の位牌堂に祀られる与板大仏の仏頭。

そもそも与板(よいた)大仏って何!?という声が聞こえてきそうですが、この大仏は元々知恩院のものではありませんでした。遠く新潟県に祀られていた高さ5メートルの丈六仏です。歴史の荒波に揉まれながらも、紆余曲折を経て現在の知恩院に安息の地を得ています。

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知恩院勢至堂前に祀られる戦死者慰霊の大仏

与板大仏の歴史は大正12年(1924)に遡ります。

場所は新潟県柏崎市にある、城下町として知られる与板町(よいたまち)・・・そこの浄土真宗・光西寺のご住職が、日清戦争の戦死者慰霊のために仏像を造ろうと決心します。仏像を造る前に、京都や奈良に出向いてその作り方を学んだそうです。帰郷後に、阿弥陀如来像などと一緒に造り上げたのが与板大仏だったというわけです。

知恩院勢至堂

知恩院勢至堂

現存する知恩院最古の建造物で、国の重要文化財に指定されています。

与板大仏の仏頭は、この勢至堂の手前左側の位牌堂に祀られています。知恩院の中でもとても重要な場所に安置されていることが分かりますね。向かって右上の高台には法然上人の御廟があります。ここは念仏発祥の地であり、広大な敷地を誇る知恩院の中でも聖地と呼ぶにふさわしい場所です。

法然上人御廟への石段

勢至堂や御廟所へと続く石段。

階段横には、法然上人の石像が建立されていました。

法然上人像を安置する御影堂を回り込んで、裏手に控える108段の階段を登って行きます。今の御影堂や三門のあるエリアは、江戸時代に徳川家によって拡張された部分です。元来の知恩院は、この上手の勢至堂(かつての本堂)や御廟のある場所でした。

御廟所位牌堂

勢至堂前の位牌堂。

建物の右手の方が開いていますね。

与板大仏仏頭

いらっしゃいました。

見事なまでの存在感です。

仏頭というのは数奇な運命を辿るものなのでしょうか。奈良県桜井市から飛鳥へ抜ける途上の山田寺の仏頭。これも国宝指定の仏頭ですが、今は興福寺の国宝館に収められています。与板大仏の故郷もここ京都ではなく、新潟県の与板町なのです。

発願者である光西寺ご住職のお名前を藤井界雄氏と言います。藤井氏は与板城跡に建てた荘厳な建造物・万歳閣の持ち主でもありました。開眼供養された与板大仏は、一時期万歳閣に収められていたそうです。残念ながら、開眼式を見ることなくその前年に亡くなった藤井氏。万歳閣はその後、昭和6年に火災により焼失してしまいます。

藤井氏の死後は仏像の維持もままならず、胴体と頭部を切り離されて、頭部だけが新潟県長岡市に運ばれ、さらに数箇所を経て神奈川県三浦市の城ケ島に至り、最終的には知恩院へと運ばれることになります。

与板大仏仏頭

耳たぶには立派な穴が空いていました。

ピアスホールとも言われますが、釈迦がまだ王子であった時代にピアスをしていた名残ですね。あらゆる装飾を捨て去って修行に出る、その決意の表れでもあります。耳朶環とも呼ばれ、八十種好の一つに数えられます。

左頬には補修の跡のようなものも見られますね。

重要文化財の勢至堂

勢至堂の御本尊は勢至菩薩のようです。

元々は法然上人の尊像が本尊として祀られていましたが、御影堂に移られたため、今は上人の本地身(ほんじしん)とされる勢至菩薩像が安置されています。

与板大仏仏頭

螺髪(らほつ)の「螺」は巻貝を意味しています。

至近距離からの拝観が可能なため、一つ一つの螺髪が巻き込んでいる様子もよく分かります。

京都駅

帰路は京都駅へ・・・

京都駅から京都タワーを見上げます。

今日は珍しいものを見せて頂きました。知恩院の七不思議にも加えてみたくなる穴場ではないでしょうか。まぁ、知恩院の歴史と深く関わっていないと言えばそれまでなのですが(笑)

知恩院参詣の際は、御影堂の大扉にも注目してみて下さい。

木造建築を守る河童の落とし金を見ることができます。ちなみに御影堂正面東寄りの屋根下には、左甚五郎の忘れ傘があります。さぁ、あなたも見所満載の知恩院へ繰り出してみましょう!

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